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9/1防災の日に考える。「備える」の、その先にあるもの

○○月○○日は○○の日
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9月1日、本日は「防災の日」

毎年この日になると、水を備えよう、食料を備蓄しよう、非常用持ち出し袋を確認しよう、といった言葉を多く目にします。
私も例に溺れずそうでした。

もちろん、備えることは大切です。

私自身、防災について考え始めた頃は、「何を持つか」をかなり重視していました。

水、食料、ライト、バッテリー、燃料、調理器具。
停電したらどうするか。断水したらどうするか。物流が止まったら何日暮らせるか。

一つひとつ想定し、足りないものを足していく。

防災とは「不足しているものを見つけ、それを備えること」だと思っていたのです。

ところが何年も考え続けているうちに、少し違う方向へ思考が向かうようになりました。

もしかすると、防災には「持たない」という考え方もあるのではないか(例外前提アリ)。

この1年、そんなことを考えています。

災害は、自宅にいるときに起きるとは限らない

この考えの根底には、2011年3月11日の経験があります。

東日本大震災が発生したあの日、私は自宅ではなく下北沢にいました。

当然ですが、自宅にどれだけ備蓄があったとしても、その瞬間に自分の手元になければ使えません。

災害は、こちらの準備が整った場所と時間を選んではくれない。

仕事中かもしれない。
電車に乗っているかもしれない。
買い物をしているかもしれない。
旅行中かもしれない。

家には水が何十リットルもあり、大容量のポータブル電源があり、食料も燃料もある。

それでも、自分が数十キロ離れた場所にいれば、それらはその瞬間には存在しないのと同じです。

さらに極端なことを言えば、自宅そのものが倒壊してしまえば、大きなポータブル電源を持って逃げることなどできません。

そして、自分が死んでしまえば、当然ながら何ひとつ持っていくことはできません。

ずいぶん極端な話です。

でも、防災について考えるとき、私はこういう「極端な地点」まで一度思考を進めてみることには意味があると思っています。

極論から逆算すると、本当に必要なものが見えてくるからです。

「備える防災」から「手放す防災」へ?

防災を始めたばかりの頃は、装備が増えていきました。

これは自然なことです。

知らなかったリスクを知れば、それに対応する道具が欲しくなる。
停電を知ればライトを買い、断水を考えれば水を増やし、長期停電を考えればバッテリーや発電手段を用意する。

ところが、それを何年も続けていると、今度は別の疑問が生まれます。

「これは、本当に全部必要なのだろうか」

防災用品が増えれば、保管場所が必要になります。

管理も必要です。

食品には賞味期限があり、電池は劣化し、機器は定期的な動作確認が必要になる。

そして何より、それらを「失いたくない」という感覚も生まれます。

防災のために所有したものが増えるほど、災害時に守りたいものまで増えてしまう。

ここに、少し不思議な逆転があります。

生き延びるために集めたものが、いざというとき「これを置いて逃げていいのか」という迷いを生む可能性がある。

だったら最初から、「失って困るものを減らしておく」という防災があってもいいのではないでしょうか。

この考えはローリングストックがきっかけでした。
ストックヤードを廃止し、全部1まとめにする、3日〜7日分予定に持つだけ。
これで管理とうっかり廃棄から解放されました。

これであれば他にも使うものをちょっと多めに持つだけでOKなのです。

身軽であることも、ひとつの備え

これは「備蓄なんていらない」という話ではありません。

水も食料も必要です。
乳幼児、高齢者、持病のある人など、その人にしか必要性を判断できない物資もあります。

家庭によって事情も違います。

十分な収納場所があり、きちんと管理できるのであれば、多めの備蓄が合理的な場合もあるでしょう。

私が考えているのは、そのさらに先です。

「何を増やせば安心できるか」だけではなく、「何を失っても動ける自分でいられるか」を考える。

持っている道具そのものより、道具がなくても次の手を考えられる知識。

特定の装備より、状況に合わせて行動を変えられる判断力。

そして、必要なら所有物を置いて、すぐその場から離れられる身軽さ。

そういうものは、家が壊れても失われません。

外出先でも使えます。

「持つ防災」は場所に紐づきますが、「知っている防災」は自分についてくる。

3.11を経験してから年月が経ち、防災について考え続けた結果、私はこの違いを以前より大きく感じるようになりました。

それでも「自己責任」は残る

ただし、「持たない防災」には明確な弱点があります。

誰かが助けてくれることを前提にしてしまえば、それは身軽なのではなく、単に他人の備蓄に依存しているだけだからです。

大規模災害では、支援物資がすぐに全員へ届くとは限りません。

避難所にも十分な物資があるとは限らない。

さらに、ミルクやおむつ、生理用品、薬など、必要とする人が限られる物資は代替が難しく、周囲から分けてほしいと求められる場面も想定しておく必要があります。

だから私は「持たないほうが正しい」と言うつもりはありません。

むしろ逆です。

持たないという選択ほど、自助の意識が必要になる。

自分に必要な最低限は何なのか。
何日間なら外部に頼らず動けるのか。
何を家に置き、何を常に携帯し、何を現地で調達するのか。

減らすためには、増やす以上に考えなければなりません。

防災は「足し算」だけではない

防災用品売り場へ行けば、必要なものはいくらでも見つかります。

これも必要。
あれも必要。
念のため、これも。

防災は簡単に足し算になります。

けれど、ある程度まで備えたら、一度逆方向から考えてみてもいい。

これはなくても生きられるか。

これを失った瞬間、行動できなくならないか。

この道具ではなく、知識で代替できないか。

そうやって一つずつ引いていく。

足し算の防災から、引き算の防災へ。

そして最後に残ったものこそ、自分にとって本当に必要な備えなのかもしれません。

9月1日、「何を買うか」ではなく「何を手放せるか」

防災の日というと、新しく何かを準備する日になりがちです。

今年は少しだけ逆から考えてみようと思います。

何を買うかではなく、何を手放せるか。

何を備蓄するかではなく、何を失っても動けるか。

どれだけ所有しているかではなく、何もない場所からどれだけ立て直せるか。

もちろん、これが正解だとは思っていません。

防災に一つの正解などないからです。

家族構成も違えば、住んでいる場所も違う。
体力も違う。
必要な薬も違う。
使えるお金も収納場所も違う。

だから「そうしなさい」と言うつもりもありません。

ただ、ときには極端なところまで考えてみる。

もし家に戻れなかったら。

もし備蓄を全部失ったら。

もし今、手元にあるものだけで動かなければならなかったら。

そこから逆算してみると、「備える」という言葉の意味が少し変わって見えてきます。

備えることと、手放すこと。

一見すると正反対ですが、目指しているところは同じなのかもしれません。

状況が変わっても、自分で判断し、自分で動けること。

防災用品を増やし続けた先で、私はいま、「身軽であること」に興味を持っています。

9月1日、防災の日。

備蓄品の賞味期限を確認するのと一緒に、

「自分は、何を手放せるだろう」

と考えてみる。

そんな防災の日があってもいいと思うのです。

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